安武和宏さん、情報ありがとうございます。
家紋が桔梗紋(?)ということですが、私も記憶が定かではないのですが、熊本県の西合志町に
安武美濃守の墓があり、お隣の安武さんの墓石に桔梗紋が付いていたと思います。
(ちなみに安武美濃守は永禄元年(1558)に立花方について宗像氏と戦った記録が残ってます。
同一人物なのかは分かりません)
桔梗紋は元々使用されていたのか、拝領紋なのでしょうか。家紋の分布も調べてみると意外な
事実が分かってくるかも知れませんね。もし朝倉地方から熊本北部地方まで桔梗紋が大部分だと
すると、この武士団は相良氏に属していたかもしれません。何かとても興味があります。
もし何か進展がありましたら、是非書き込みお願いします。
安武のルーツを探るサイトを発見して驚いています。
わたしは福岡市中央区在住の安武です。
はじめまして。
家紋ですが、うちはキキョウだったようなきがします。ちょっと調べてみます。
出身ですが、うちはもともと祖父は朝倉街道の出身だったと思います。
戦後に福岡市に移り住んで、今に至ってます。
叔父が家系図を以前調べてましたが、なんか平家がどーのこーのと言っていた記憶があります。
安武可成さん、はじめまして。書き込みありがとうございます。
できるだけ多くの人に見て頂きたいと思い、他の歴史サイトと相互リンクを張っていってますが、
まだまだ宣伝が足りないと思っています。(Yahooには何度も登録依頼したのですが、登録して
もらえない・・・)
徐々にでもこのHPを知る人が増えて、掲示板で活発な情報交換ができるように努力していきます
ので、どうぞ今後とも宜しくお願い致します。
どうも、24歳のヤスタケです。なんだかヒトゴトではないHPを発見してしまったって感じで興奮いたしております。佐世保市で生まれ、現在は仕事の都合で大阪に住んでおります。これまでは自分の姓に別段興味もなかったんですが、このHPを見て、興味がわいてきました。掲示板を見ると、9月以降書きこみがないようですが、また活気が戻るとよいですね。ヨロシクおねがいします。
私の名前が「やすたけ」ですので、「安武」=「やすたけ」以外に考えたことがありません
でした。
同じ漢字でも地域によって読み方が変わってきますので、もしかしたら九州以外の地域で別の
読み方もあるかも知れませんね。「あべ」さんや、「あぶ」さんが居られるかもしれません。
(電話帳で「や」の項目に安武が載ってましたので、九州以外でも「やすたけ」なんでしょう)
これは私の推論ですが、福岡県久留米市の安武(やすたけ)の地名は「八洲(やす)」+
「岳(たけ)」から来ているのかなあと思ってます。安武は筑後川下流に位置し、高良山も
あることですから・・・
この地を発祥とする安武氏は「やすたけ」なんでしょうね。
ちょっと聞きたいことがありましたのででてきました。
安武ってなんと読むんですか(・・?
「やすたけ」って読んでいましたが、
先の「安武太郎右衛門」の場合、質の悪いものには「安部」と書かれて
いるものもあり、「あべ」かなとも考えました。
その後、女子柔道のオリンピック選手である「阿武紀子」さんの読みが
「あんののりこ」と読むとわかって「安武」も「あんの」かなとも思い
ました(^^;
なんと読むのが本当なのかな(・・?
筈衛
安武伸洋さん、情報ありがとうございます。
同じ紋なのですね。古賀、新宮一帯の安武さんは同じ武士団だった可能性が高いですね。
宗像との戦の件でちょっと触れさせてもらいますと、
永禄11年、当時立花城主の立花鑑載が反乱を起こしますが、この10年前に立花鑑載は
宗像氏と長尾原というところで戦って、この際、立花の家臣、安武美濃守が馬に乗って云々という
記述があります(九州軍記)。(何故か熊本県の西合志に「安武美濃守之墓」がありますが)
この頃から安武は立花の家臣として、宗像氏との境界の古賀を拠点にしていたのではないかと思わ
れます。この子孫なのでしょうか?
追記
HPに文献を追加しました。内容は、安武茂庵が立花宗茂を頼って、
棚倉から柳川に移ったときに、200石を賜ったという記述です。当時茂庵は東茂庵統番と名乗って
ます。嫡子は蔵人といって、300石を賜ったということです。
夏休みに実家に帰ったとき(ちなみに今は横浜に住んでいます。)、父の実家の家紋を確認したところ、管理人さんと同じ”丸に剣梅鉢”であることがわかりました。
不確かな情報ですが、父に話を聞いたところ、多分家の家系は立花町の安武さんと関係があるんではないかと言っていました。あと、昔、その立花の安武と宗像の方とで戦っていたとかも言っていました。古賀氏のHPにある立花と宗像の戦いと関係があるのかなとちょっと思いました。
それでは、
安武伸洋さん、はじめまして。実は私も30才です・・・。
青柳というと、宿場町ですね。とても風情のある町ですよね。
私の家も曽祖父の代まで莚内で農業を営んでいました。
明治の頃、火事に遭い蔵が焼けて書物類が何も残っていないということで、
本家にも資料が残っていません。ただ「菅原」とは関係があるらしいということ
は聞いています。
筵内の安武は慶長の頃から栄えていたという話を聞いていますが、
暇を見つけて県立図書館で調査しているのですが、この頃の資料がほとん
ど無く、立花側近の米多比家、薦野家の文書、地士である三苫家、横大路家の文書を
片っ端から調査しようとしているところです。
あとは天文の頃の資料ですね。これは大内関連の文書を当たるしかないと考えてます。
もし言い伝え等がありましたら、教えて下さい。かなりの参考になります。
あと御存知かも知れませんが、相互リンクさせて頂いてる「よかくさ古賀」の歴史講座も
参考になるかと思います。
どうぞ今後とも宜しくお願い致します。
何気なく(出るわけないと思いながら)検索サイトで”安武”を検索したら
このサイトにたどり着きびっくりしています。
私も、昔から、”安武”のルーツが知りたいと思っていましたので、
このサイトを見つけてとても嬉しく思っています。
私は、このサイト中にも出てくる、青柳の安武です。
多分、青柳の安武さんは、全て私の親戚と思います。
私は、30才で、私の家は分家で、本家(父の実家)は昔から(少なくとも祖父の代)農家を
営んでいます。
今後とも、このサイトの発展を楽しみにしています。
できる範囲(青柳の安武氏のことなら)で協力もします。
それでは、
龍造寺も会津に移ってたんですね。勉強不足でした。龍造寺方にも安武は従ってますので、
こちらの流れの可能性もある訳ですね。
私は安武鑑教、鎮教親子を調査し始めて6年になるのですが、今でも新しい記述を発見する度に、
ああこの時こんな行動を取ったのかと感じてます。人間の行動、親子の行動を分析するのは
面白いですよね。
福島の安武の調査も始めてみます。そこから先祖は誰々で〜の時以来住みついている。
なんていう記述があるかも知れませんから・・・
>>タイトル: 会津藩ですか
>>発言者: 管理人(安武博史)
>>会津藩というと福島県ですね。立花宗茂が棚倉へ移った際に、安武茂
>>庵(東統番と名乗る)も棚倉に移ったという記述があるのですが、同
>>時に九州の安武一族の一部も移った可能性があります。
>>この流れなのでしょうか?
流れははっきりしないです(^^;
ただ、立花宗茂のほかに、福島県には龍造寺伯庵(会津藩)、高橋元
種(棚倉藩)も流されていますし、その関係で九州の侍が多く来訪して
います
また、九州とは関係ないかもしれませんし・・・・(^-^;
>>ところで、HAZUさんは安武に関係のある方なのでしょうか?もし他に
>>も何か御存知であれば、ご遠慮なく書き込んで下さい。もし書き込み
>>に躊躇されているのでありましたら、メールで頂ければ幸いです。
わたしは安武には関係ございません。ただの系図好きです(^^;
系図見て、この人どんなことした人なのだろうかと、いろいろな本を
読んでみるとその家のこだわりなのか、性格なのか、妙に似ている人が
いたりして面白いです(^^;
とつじょとして、ぜんぜん違う行動をする人もいたりして、家の隆盛
が興るときはこういう人物がでるのかとか・・・(^^;)
先の安武太郎右衛門については、殺された原因はもっとはっきりわか
っていますが、子孫もいないようですし、この場合あまり言及しないで
もよいかと省略させていただきます。
福島県のほかの藩で安武氏がいましたら、そのときは書きこまさせて
いただきます。
筈衛
HAZUさん、情報ありがとうございます。
会津藩というと福島県ですね。立花宗茂が棚倉へ移った際に、安武茂庵(東統番と名乗る)も
棚倉に移ったという記述があるのですが、同時に九州の安武一族の一部も移った可能性があります。
この流れなのでしょうか?
福岡に住んでますと、周辺の地域の調査しかできず、福島の情報となるとなかなか手に入ることが
できません。
棚倉に関しましては、全くといっていいほど調査しておらず、私の知っている限りでは上述のこと
位です。何か御教授下されればと思います。
ところで、HAZUさんは安武に関係のある方なのでしょうか?もし他にも何か御存知であれば、
ご遠慮なく書き込んで下さい。もし書き込みに躊躇されているのでありましたら、メールで
頂ければ幸いです。
どうぞ今後とも宜しくお願いします。
会津藩士にも安武姓の侍がいたようですが、ある事件のときに殺され
てしまったようです
才能はあったようですが、問題行動もあって、他藩士にそねまれてい
た人物のようです。
系統はわかりません。父親は安武五大夫というそうです。
あまり良い記事じゃないから、アップを躊躇していましたがアップし
ないよりはよいかと思いかえしました。
筈衛
立花さん、書き込みありがとうございます。
もしかして、私と遠い親戚にあたるのでしょうか・・・?
大分寺といいますと、安武河内守鎮則の菩提寺ですね。私は昨年、安武河内守鎮則のお墓(新宮町上府)
をぜひ見てみたいと訪問したことがあるのですが、宅地造成中でお墓はなくなっていました。
近所に住んでおられる安武さんから聞いた話では、立花さんのおっしゃられるとおり、何年か
前に、安武河内守鎮則を始祖とする方々が集まられて、400年祭をやったということです。
(安武河内守鎮則が亡くなったのが400年前)
戦国時代の武将で立花道雪(立花城城主)が安武鎮教と離別した妻(一説には妹)の仁志姫を
妻に迎え、また鎮教の子息である、道清(立花弥左衛門)、方清(茂庵)、於予志を養子とした
ことから、この時以来、立花家と安武家は親類になったのだと思われます。
私の力不足から思うように調査がはかどっていませんが、どうぞちょくちょくHPに遊びに来て
下さい。近いうちに、室町末期〜江戸時代初期の安武の系図(今までに解っている部分)を
掲載する予定です。
今後とも、どうぞ宜しくお願い致します。
始めまして立花と申します。
名前は立花ですが、祖母が安武なので、興味があって訪問しました。
現在、糟屋郡に祖母が住んでおり、安武のお墓は新宮の大分寺にあり、
何年か前に、400年祭?を行った。と祖母が言っておりました。
それと、立花と安武は昔から親戚同士だと言うことも言っており、歴史の無知な、
私にとって?の文字が・・・・。祖母もあまり歴史のことは解らず、今は亡き祖父が生きていれば、いろいろ教えてもらえたと思うのですが。
しかし、このHPで先祖の足跡をしることができ、大変うれしく思います。
是非ともガンバッテ調査の程を続けて下さい。応援しています。
賢太郎さん、書き込みありがとうございます。今後も宜しくお願いします。
カンザスですか・・・遠いところよりこのHPを探して頂き光栄です。
筑前地方の安武はどこから出たかについてですが、まだぼんやりとしか分からないです。天文
年間に既に青柳(古賀市)に安武が現れ、永禄年間に安武美濃守、安武民部丞が見えますが、
一体誰の子孫なのかは調査不足で分かりません。しかし一つ言えることは、家紋が海津城城主の
家紋と一致することから、新宮、古賀の安武さんは菅原姓安武氏ではないかということです。
厳密に言いますと、新宮に安武河内守鎮則の墓があり、上府の安武さんは家紋として長剣梅鉢を
用いていること、莚内の安武さんはこの分家筋なのか、この紋に丸が付いていることを考えると、
どうしても海津城城主の安武一族であるとしか考えられないからです。
安武河内守は立花道雪の元で戦った記述がありますが、立花家に仕えた安武氏は宗像氏との前線
であった立花城の東方面(西郷川、筵内付近)を警護し、立花家が柳川に移った後は横大路家と
同じくその地に残って農業を営んだのではないかと思います。
まだまだ仮説に過ぎないのですが、筑前の安武を調査するために、大内、陶、毛利の文献を調査
しようと思っています。
ところで、ワシントン州の釣好きYASUTAKEさんですか・・・。うーん、河内国の人が突然筑後国
に現れたことを考えると、安武さんはひょっこり異郷の地に現れるの好きなんでしょうかねえ。
歴史のことはよくわからないのですがぼくも安武なので
興味があってみてみました。
かなり九州それも福岡にかたまっているんですね安武姓は。
ぼくも粕屋郡出身なのですが今はカンザス州にいます。
(分布図にはのせないでくださいねカンザス(笑))
でも本当安武ってどこからでたんでしょうね?
前ワシントン州のローワーコロンビアという大学で野球の大会があって
僕もでたのですがその時試合後に僕の名前を放送(ウグイス嬢)で
聞いたアメリカ人のお年寄りが僕のところへやって来てYASUTAKEって
昔この土地に釣りきちがいが一人でおったんやけど親戚かなんかか?
ってきかれてびっくりした経験があります。そのお年寄りが若い頃
ということは戦前からいたんですかね安武さん、アメリカの片田舎に。
あけましておめでとう御座います。
昨今は、非常に忙しく、PCがウィルスに犯されてブックマークから消えていた所為もありまして。
中々こちらに来ることが適いませんでした。
今後とも宜しくお願い致します。